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その道の人に聞く

地球温暖化をどう理解するか その8
〜地球温暖化問題と日本〜

公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)
理事長
浜中 裕徳(はまなか ひろのり)様

公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)
理事長挨拶:IGESが目指すもの

2015年11月~12月にパリで開催された気候変動枠組条約締約国会議(COP21)。この会議は、明確な長期目標の下で「待ったなし」の目標設定と温室効果ガスの削減実施が全ての国に求められることとなった歴史的な会議として注目されています。

今回のインタビューは、長年、日本の環境政策に携われてこられた IGESの理事長 浜中裕徳 様に「地球温暖化問題」について、お伺いしました。

【その9】国際社会における日本への批判(80年代)と地球温暖化

発足当時に課長をされていた地球環境部は、何を扱う部署だったのですか?

1990年当時の最大の地球環境問題はオゾン層の破壊でした。われわれ生物を紫外線から守ってくれるオゾン層が破壊され続けているということがわかり、典型的な地球環境問題と言われていました。さらに、地球温暖化問題が重要な課題として浮上しており、IPCC第1次報告書を受け、この問題を国連でどのように取り上げるかということや、国内で地球温暖化防止行動計画を策定することが大きな課題でした。

また、こうした問題に加え、当時日本のバブル経済ははじけていたのですが、世界第2位の経済大国だった日本に対し、木材を大量に輸入して熱帯雨林の破壊に手を貸している、とか、世界中の魚を取りまくり資源を枯渇させていると国際社会から批判されていたため、地球環境部ではこうした批判への対処にも忙殺されていました。

私が高校生だったとき、オゾン層の破壊に関するテレビの特集を見て、怖いなと思った記憶があります。

ちょうどオゾン層保護条約のもとで1987年にモントリオール議定書ができたことで、国際的な目標ができ、議定書に基づく対策が進み始めていた頃でした。80年代末には、どんどんオゾン層保護に関する規制を強化していくという流れの中で、どうも問題はそれだけじゃない、温暖化も深刻だと話題になり始めていました。

それで次は温暖化対策、という流れになったのでしょうか?

地球環境部ができた2年後の1992年にリオで地球サミットをやるということになったのですが、この20年前に日本は国際社会から批判されたトラウマがありました。

1972年にストックホルムで国連人間環境会議があり、そこで水俣病の患者さんが現地でスピーチをしたことなどから、世界からは「どうも日本は国際競争力を付けてどんどん輸出を増やしているが、国内で公害対策をないがしろにして、本来コストを掛けて環境汚染を防止しなければならないものを無視し、被害は国民に押しつけて、それで安い製品を作って海外で儲けているじゃないか。環境ダンピングをしているじゃないか。」とだいぶ批判をされました。

そういうことがあったものですから、今まで日本国内では環境対策を進めてきたが、国際社会から批判をされ始めて、どうやら今までの環境対策ではカバーしきれなかった新しい問題であると理解し、ストックホルムの二の舞いは繰り返したくないということで温暖化対策を積極的に始めたわけです。

【その10】政策と技術発展

漠然とした質問で申し訳ないのですが、温暖化対策に関してどの様に思われているか教えてください。

私は、公害問題に長い間携わってきましたが、規制が大きな経済発展につながることもありました。
典型的な例は、若い頃に末端の職員として携わりました日本版マスキー法の規制です。
日本は目標を定めるのはあまり上手ではないのですが、目標がいったん決まれば頑張る国民なのです。そしてその結果が自動車産業だけでなくその後公害対策に積極的に取り組んだ産業の大きな発展につながっていきます。

はじめは不可能とも思える厳しい規制に挑み達成した事実は、これから始まる温暖化対策の高い目標値に向かっての技術開発や企業姿勢のヒントにもなるような気がします。

マスキー法ですか?

日本の規制の元になるアメリカのマスキー法は、1970年にマスキーという上院議員が提案して成立した法律で、自動車の排ガス中から二酸化窒素などの有害ガスを1975年までに10分の1に削減し、達成しない自動車は販売を認めないという実現不可能とも思える厳しいものでした。

1970年当時は、日本は特に外圧に弱かったですし、国内でも公害問題が燃え盛っていたときでしたから「アメリカでやるなら輸出規制もかかってしまうから日本でも規制をしなければ・・」となったわけです。そんな厳しい規制では自動車産業自体が潰れてしまうという反対があったため若干調整を行い、規制の実施は2年ほど伸ばされましたが、「マスキー法と同じ水準の目標値達成」は変えませんでした。

一方で、アメリカは、自動車業界や石油業界の力が強くロビイストを動員し反対運動を展開して、政策をひっくり返してしまいました。結果としてアメリカでは1974年に廃案になりマスキー法は実施されませんでした。

マスキー法発祥の地で廃案になってしまったのに、日本では同様の法律が実行されたのですか。

当時の日本の自動車産業はまだ成長途上で、政治に口出しをして政策をひっくり返すようなことはできませんでしたから、自動車メーカーは企業の存続をかけて取り組まれたようです。

ケタ違いの厳しい規制をクリアするためには、排気ガスフィルターの改善といったレベルでは達成できず、エンジンそのものを大幅に改良することが必要でした。そこで、エンジンに関わる様々な根本的技術から向上させ、結果としてエンジンを中心とした日本の自動車技術は世界一だと評価されるようになったのです。
それで、アメリカ市場も含めて日本車はどんどん世界へ出て行くことになって、日本を代表する産業へと発展しました。

そのときにある学者の方から伺った話ですが、自動車メーカーのエンジニアさんから、「会社の経営陣が、営業ではなく、技術開発にお金を投入してくれた。そういう意味で政府の規制は、苦しかったけれど自分たちに活躍をする場を与えてもらえて、ある意味ありがたかった。」という発言があったということです。

今でも世界一と評されている自動車技術は、厳しい規制と不可能とまで思えた規制をクリアした企業経営者の英断と技術者の努力がひとつになって作り上げたものです。

規制をクリアしようとすることで、技術開発が進んだ実例ですね。

地球温暖化の問題も、「科学者の見解である」と他人事のように考えるのではなく、わが国と地球社会の行く末を左右する重大な問題ととらえ、一刻も早く脱温暖化の政策指針を示すことが必要だと考えます。そのような方向を示せば、日本の国民性と技術力により、世界のどの国でも成し得ない技術や仕組みを作り出すことができるだろうと期待しています。

政策の方向が決まれば、企業経営者も迷うことなく経営方針が決まり、技術者も開発目標が決まります。そして、生活する我々の意識も高まって、小さな我慢もできる。国民がひとつになって取り組めば達成できると思います。

オリンピックや高校野球で、気持ちをひとつに、というフレーズを耳にしましたが、温暖化対策でも、行政・技術開発者だけでなく、生活者としても当事者であると認識して行動する事も、大事なのだろうと思いました。そして、一生活者としては、技術開発や仕組み作りによって行動の選択肢が増えれば良いなと思います。


ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回は、浜中さまが理事長を務められている地球環境戦略研究機関(IGES)についてお聞きしました。


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